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群れから離れて生きていたい

楽に呼吸できる生き方を求めて

辛いときだからこそ掘り出せる宝物

何か辛いことがあったわけでもなく、
何か不幸があったわけでもないのに、

もうこれ以上、沈めないというくらいに、気力が弱くなってしまうときがあります。

そんなときは、目の前のことを淡々とこなしながら、

いつもより丁寧にご飯を作ったり、掃除をしたり、日光浴をしたり、
なるべく生活感のあるスーパーなどに行って、
暗いところに引っ張られないように、
そっとしながら毎日を過ごすようにしています。

でも、
そういう時期は、宝物を掘り出せる、絶好の機会でもあるんですよね。

生きる気力がないときは、
視点の当て方をちょっと間違えるだけで、
あっという間に、絶望感に取り囲まれて、
もう明るい気持ちの自分には戻れないんじゃないかって思うほど、悲しくなってしまいます。

でも、
そんなときでも、
残っているものがあるんですよね。

何にもやりたくないのに、
それだけはやってもいいと思えるものがちゃんと残っていたり。

やっぱりこれ好きだなぁ。
やっぱりこういう人いいなぁ。
やっぱりこの感じがいいなぁ。

自分の内側から勝手に声が聞こえてくるような感じで、
とてもとても小さな声ではあるけれど、
自分の好きなものをちゃんとわかっている自分がいる。

元気なときは、少しくらい大きな雑音も、余分な荷物も、多少の居心地の悪さも、なんだかんだ受け入れられてしまうから、

実は元気なときの方が、
色んなことを、ちゃんと見られていなかったりするのかもしれませんね。

生きる気力が弱まっているときは、
自分にとっての、
生きていくための必要不可欠なものしか手にしていられないから、

自分の軸となっているものだけが残っていてくれる。

ある意味、極限状態だからこそ、

色んなことに気づきやすくなるんだと思います。

だからいつだって、
その状態でしか手に入らない宝物があるんだと思います。

私はそれを見つける名人になりたい。

自由とは思考が生む出すもの

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海の上のピアニスト

小学生の私に、豊かさについて、自由について、教えてくれた映画です。

ふと思うことがあり、久しぶりに観てみました。

海の上のピアニスト」は、

豊かさも、
自由も、

外ではなく自分の中にあるのだと気づかせてくれる映画だと思います。


"ピアノが奏でる音楽は無限であるけれど、

鍵盤の数は88と決まっている。

鍵盤が無限にあるから、無限の音楽を奏でることができるのではなく、

弾く人間が無限の音楽を創り出すんだ。"

という感じのセリフがあるのですが、

ここに、小学生ながらもガーンときたことを思い出します。

制限があっても、
縛られていても、
何もなくても、

自分さえ変われば、豊かにも自由にもなれるんだと、気づいた瞬間でした。

例え、環境を変えられなくても、

今いる場所で何ができるかを考えることで、自由になれるんですよね。

自由とは思考が生み出すもの。

有限の中で無限をみる感性について考えさせられます。

素敵ですよね。

これこそが、本当の豊かさなんじゃないかなって思っています。

欲しいものが欲しい!!と思う心について

傷ついたり、
絶望を感じたり、
惨めな思いをしたくないのなら、

“自分はこれくらいだ”と早々に見切りをつければいいのかもしれない。

手に入らないものを増やしていけば、
安心と安定と安泰の人生を生きられるような気もする。

別れや誤解や偏見の生まない人間関係を築けるような気もする。

でもね、私はやっぱりその方が苦しいって思ってしまいます。

志を高く持って、謙虚さを戒めに野心を抱き、

「こんな仕事ができたらいいな!!」と楽しく夢を膨らませて行動してみて、

「カッコいい!!自分も欲しい!!」と、俗っぽい欲望もありのままに受け止め、純粋に追いかけてみる。

そういうことを、「もういい大人だから」なんて言葉で自分の気持ちをごまかさないで、
夢のまた夢に思えても、素直に夢を持てる人でありたいと思ってしまいます。

そういうことを、
自分がやりきったと思うまでやった先にあるのが、
安心と安定と安泰を感じられる、悟れた人生のような気がします。

仕事だと固いから、
私の俗っぽい欲望を例にあげるなら、

たとえば車。

呆れられるだろう覚悟で書きますが、
ポルシェは青山で、
フェラーリは広島(エムオート)で、
この人に担当してもらう、まで決まっていて、

日常的にこんなふうにガシガシ乗って、
こんなふうに遊んで、
ここを貸し切って思いっきり走ってみて、
この車でこの道をこんなふうに走って…

なんてイメージしているんですね。
手に入れられるの確定な感じでリアルにイメージできているのが、
本音なんですね。

でも、そういう夢を持つ自分を素直に受け入れるって、
とても大変です。

志ある仕事の夢ならまだ聞こえがいい。
志によっては、夢を掲げているだけで賞賛されたりすることもあります。

でも、仕事とか志とか世のため人のためとか、
そういうことを抜きにして、純粋に「これ欲しい!!」と憧れる気持ちって、
大人になればなるほど罪悪感になる。
罪悪感の分だけ自分の現在を思い知らされもする。

特に、「これが欲しい!!」というものが、権力の象徴として扱う人が多い世界のものだとなおさら。「欲しい」と思うだけで、なんだか悪いことをしているような気持ちになる。

そういう器の小さな自分の気持ちに気づいて、こりゃいかんと思い、
自分への戒め?も込めて書いてみました。


憧れに罪悪感を抱いている間に、
この人に担当してもらいたい!と思えるような人はいなくなり、
これが欲しい!と思えるような車もなくなり、
そもそも夢を抱ける自分の命の時間もカウントダウンされてしまいます。


これは何も、焦ってどうにかしたいとかそういうことではないんです。

この例だと車だけど、
他のどんな憧れに対しても、


罪悪感とか、諦めとか、そんな気持ちを持たないで大事にしてあげようよということなんです。
自分と自分の中でだけでも。


改めて考えてみれば、

自分が「欲しい!!」と思えるもの、
「カッコいい!!」「素敵!!」と胸が熱くなるようなもの、
「こうなりたい!!」「こう生きたい!!」と情熱を感じられるもの、

そういうものって、実際は本当に少ないものです。


そういうものと出会えたこと、
出会える時代に生きていることだけでも、

もう凄いありがたいことだし、
人は皆大きな運を持っているんだと思います。

豊かに大きく考える自分を失わずに、
素直な気持ちを受け入れられる器を育てようと思います。

人から人へ届く笑顔

まだ知らぬ誰かへのありがとう。
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先日、理学療法士さんとのリハビリ中、
流れていた曲にとても惹かれるものがありました。

聞いてみると、
患者さんにプレゼントしてもらったCDをかけていたそうで、

「気に入ってくれた人がいたと知ったら喜びますよ!」

と、このCDを教えて頂きました。

ちょうどその頃、
自分の中から言葉が出てこなくて仕事も進まず悶々としていたときで。

その曲と波長を合わせることで、
やっと書けるようになったんですね。

私にとっては救いの一曲でした。

その患者さんは、数ヶ月前なり数年前の自分の行動が、
巡り巡って私の力になるとは知らないし、
もしかしたら、この先も知らないままかもしれません。

でも、こんなふうに、
人と繋がって、人に影響を与えていくのが、
人生なんだなとしみじみと感じました。

自分の言動の影響は、
自分が関わった人だけに与えるものではないんですよね。

自分が関わった人が関わった人、その人達が関わった人へとどんどん繋がっていく。

たった一滴でも、水面にしずくが落ちれば波紋となって広がっていくように、

人は人と繋がって、影響しあっていくんですね。

そう思うと、
自分の一滴は、いつだって良きものであるように、
そうできる心であるように、
日々の生活を大切にしていきたいなと、

改めて考えさせられる出会いでした。

無力なときこそ磨ける力

無力なせいで惨めな思いをすることはたくさんあります。

 

何者でもなく、

何の力もなく、

社会的に弱い立場にいれば、

傷つくことも多い。

 

でも、無力なときの方が磨ける力もあります。

それは、“人を見る目”かなと。

 

 

もしも、無力な自分が嫌で何とかそこから脱出するために、

とにかく“無力でない存在になろう”と頑張ったとして。


大勢の人と繋がろうとしたり、

属する世界をもとうとしたり、

評価されやすいものを得ようとしたり、

見栄えする経歴や実績を獲得しようとしたり、

自分は○○です。と何者であるか言えるようにしたり、


すぐに効果の出やすそうなもの、

すぐに効果を感じられるものを選んでいったとして。


そのおかげで、嫌な思いをしたり不利にならないような気がしてきたとしても、

それは“人を見る目”を養う機会と引き換えにしている。

 

無力で弱者で何者でもない者に対してでも、

誠意ある対応を示してくれる人や会社や団体を知る機会を失ってしまいます。


表面的なことに囚われている人が誰で、

本質を見ている人が誰なのか、気づくチャンスを失い、


疑うべき人が誰で、

信頼すべき人が誰なのか、判断する力を鍛え損ねることになります。


結果的に力を得ていることと、

力を得るために何かをすることの違いと損失をよく見極めたい。

 

何かを得たとしたら、

それは何と引き換えにしているのか、

 

何に光を当てたことで、どこに影が生まれたのか、

見落とさないようにしたい。

 

 

"異例"が生み出す選択肢


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思うことがあり、久しぶりに大学へ行ってきました。
日曜は人が少なく貸し切り状態です。笑

どんな世界もそうですが、
組織や団体の流れに沿わない選択をする者は、

“異例”ということで叩かれることがあります。

組織なり、団体なりが成り立つのは、
“和を乱さない”からであって、
和を乱すものを許してしまったら、組織は組織として機能しなくなってしまいますものね。

そのルールに沿って苦しみながら生きてきた人の中には、
自分の人生を否定されたように感じてしまうこともあるだろうし、

組織を重んじるために必要なことと、
個人を重んじるために必要なことのバランスを取るのはとても難しいので、

組織を軽んじたと叩かれることがあるのも、道理といえば道理ですしね。

でも、その時代、その時期にどんなに“異例”なことでも、
それはいずれ、「そういう道もあるよね」という選択肢の一つになります。

そう考えると、今あるあらゆる選択肢の背景には、
“異例”だと叩かれていた誰かがいたんですよね。

嫌な思いをたくさんして、
色んな人に誤解されて、
異端者だと人に距離を置かれて、
心ない言葉に傷ついて、

それでも自分の思う道を進んで、異例を事例にして、選択肢の一つへと変えていった人達がいたんだろうなと。

それが異例であればあるほど、
理解してもらえるまでに、理解してくれる人と出会うまでに時間がかかるので、
果てしない孤独と向き合っていたんだろうなと。

そう思うと、

もしも自分が“異例”だと叩かれるような選択をすることがあったとしても、
怖くないですよね。

あぁ、みんなこんな思いをしてきたんだぁって、
辛さも軽減されるような気がします。

先人たちに想い馳せる、
過去から学ぶ、のは、

未来を生きる重さを軽くしてくれる役目もあるんだろうなと思います。

私にとって大学は、そういうことを気づく基礎を創ってくれた場所でした。

今日、久しぶりに大学の中を歩いて、

あぁ、経験をちゃんと糧にできてるって感じられて、
とても嬉しかったです。

昔よりも言葉にして理解できることが増えました。
それが何よりもうれしい。

何が欲しいのかな?

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もしも、

都会にいた方が得られるものがあるとするなら、

それはつまり、

都会にいない方が得られるものがあるということ。

もしも、

「これを手放したら、これらを失ってしまう」

というものがあるとするなら、

それはつまり、

「これを手放したら、これらを得られた」

というものがあるということ、だと思うんですよね。

だからこそ、

何を選ぶのか?の前に大事なことは、

何が欲しいのか?ということなんだと思います。

複雑に絡み合ったものの集合体が人生ではあるけれど、

"欲しいものを選んでいく"

自分にできることはいつだって、
シンプルだと思うんですよね。

仕事とは

何の気なしにパラパラと本をめくっていたら、

“仕事とは世の中からの預かりもの”
という言葉に目が留まりました。

「歩いていたら道に穴があいていた。
危ないから埋める。
たまたま自分が出くわした穴、それを埋めることが仕事なのです。」

ビビビッと衝撃が走りました。



業績を上げるなら、
自分の利益を考えるなら、

穴なんてよけて、サクサク歩いていった方がいいことの方が多い。
それが賢いと評価されることも多い。

自分がその穴を埋めている間に、
後からきた人は、穴があいていたことも知らずに歩いていってしまって、

穴を埋めていたからそこに留まっていたのに、
「いつまでそこにいるの?」
なんて言われてしまうこともある。

能力主義、業績主義的な見方からすれば、
やってられるか!って感じだね。

でも、きっと、

人にはそれぞれ、見過ごせない穴があるんだと思います。

他の穴は素通りしてこられても、

どうしても気になって、
埋めておこうって思ってしまうような穴が。

そしてその穴を埋めることで、
大勢の人から賞賛される人もいれば、
誰にも気づいてもらえない人もいる。

社会的評価を得ることを考えるなら、

より多くの人の役に立つ穴を埋めるに越したことはないけれど、

そんなことは、本当はどうでもいいことなんだよね。

大事なことは、

自分が見過ごせない穴と出会ってしまったら、
その穴を埋めようと精一杯務めること。

それが、“仕事”なのかもしれない。

そう思えたら、

"仕事"したい。と、熱く思う気持ちが沸々とわいてきて、

なんだかとても嬉しくなってきました。

やっと霧から抜けられたような、
言葉に救われた瞬間でした。

自分と"場"が一致する瞬間


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"場"には、
一瞬のきらめき、
みたいなものがあると思います。

色んなタイミングや条件や心情がピタッと重なったときだけ、

自分と"場"が一致する、というのかな。

そういう瞬間と出会えたとき、
とても心が癒されるんですよね。

なんて言うんだろう。

あぁ、生きていこう、

そんなふうに静かに、でも力強く気力が湧いてくるような感じというのかな。

そういう瞬間はいつどこで、どのタイミングで出会えるか分からないから、まるで神様からのご褒美みたいな気がします。

散歩しているときに、ふっと出会えたり、

この間のように能を観ているときに、
能が生み出す"場"と心がピタッと重なる瞬間に出会えたり。

そういう"場"は都会の中にもあるし、自然の中にもあるけれど、

いつどこで出会えるか、
こればっかりは読めないから、

喜んだり傷ついたり、
ドキドキしたり、
疲れちゃったり、
身体や心を動かしながら自分を磨いて、

またそういう瞬間と出会えたらいいなぁと、
それを楽しみにまた生きていこうって思うんですよね。

本質から変わるということ

この世で得られるものは、
自分の思考の基盤がもたらすものなんだと思います。

何を考え、
どんな言葉を発し、
どんな行動を取り、
どこに目を向け、
何を選び、
どう解釈していくのか、

そういう、人生を創る全ては、
思考にあると思います。

そしてその思考には、
そういう思考を生みだす基盤があります。

思考を動かす基礎の部分。

どんな基礎になっているのか、
それが全てを創っていくのだと思います。

耳に入る情報の中から、何をピックアップしているのか、

目に映る景色の中で、何に焦点を当てているのか、

口に出せる言葉の中から、どんな言葉を選んでいるのか、

手にできるものの中から、何を掴んでいるのか、

心で感じるものの中から、何を感じとろうとしているのか、

歩いて行ける範囲の中で、どんな道を通っているのか、

自分の思考が取捨選択をしている。

そしてそのための"考える"は、
思考の基礎が動いてはじめて考えられる。

だから自分の思考の基礎がどんな基礎で創られているのか、

パソコンでいうなら、どんなプログラムで書かれているのか。

それを知らなければ、

どんなに考えたって、
思考の基盤がもたらす考え方からは抜けられない。

自分の思考を動かすプログラムがどう組まれているのかを知り、

書き換えられないものと、
書き換えられるものを知り、

誤作動を繰り返しながら、
上手く作動するよう書き換えられてはじめて、

思考の基盤が変わる。

基盤が変わってはじめて、
取捨選択する全てが変わる。

取捨選択するものが変わってはじめて、
現実に現れる現象が変わる。

現実に現れる現象が変わってはじめて、
新しく選んでいけるものが増えていく。

何かを変える、
何かが変わる、
には時間がかかる。

変わったと分かるまでにも時間がかかる。

だから、
すぐに変えられるもの、
すぐに変わるものは、

本質は何も変わっていないということでもあるんだと思います。

そこを勘違いしないことが、
大事なポイントかもしれない。

自分が本当に何かから抜けるための。

始まるための始まり

人生を模索し続け、やっと、これだ!という道と出会えたと思っていたときの話。


ある方からの、忘れられない言葉があります。

私が、自分のやりたい道がみえてきて、
流れが生まれてきて、
嬉しくって興奮してその報告をしていると、

「よかったね。じゃぁこれからは、ズレを修正していく感じだね」

と。

あのときは、

“そうだよね!この流れを詰めていくために必要な細かい修正が必要だものね!”
というようにしか捉えられていなかったけれど、

ズレの修正って、そんなもんじゃないって、今なら分かります。

良い例えが出てこないけれど、

自分が生クリームだということが分かって、
これからショートケーキになるためにワクワクしているんだけど、

はて、生クリームってショートケーキだけに使うものじゃないよね?
と気づくみたいな。

チョコと混ぜて、チョコクリームになってみたり、
カボチャと混ぜてカボチャプリンになってみたり、
アイスになってみたり、
どら焼きなどの和菓子と合わせてみたり、

そもそも、デザートじゃなくて、
パスタに、スープに、フレンチに・・・

生クリームの活用って、もう無限にあるじゃないか!

生クリームって分かったところで、だからなんなんだい?
ってことじゃないか!

みたいな。

それに、もしかしたら生クリームだと思っていたことが、そもそも勘違いかもしれない。
近いけれど、違う乳製品だったということもあるかもしれない。

私が分かっていたのは、乳製品だった、というところだけだったのかもしれない。

何かの道に入ったところで、
それで自動的に何かが決まるわけでも、
あとは、流れにそってこれでOKよ。なんてことはないんだと、今なら分かります。

人によっては、
生クリームだと分かって、
たまたまショートケーキに合わせようとして、
それが上手い具合にフィットして、
生涯をかけて、美味しいショートケーキ作りに精を出すものもいれば、

なんかいまいち合わない感じがするけれど、
ショートケーキって可愛いし、定番でいい感じだし、
もう生涯、ショートケーキに使う生クリームでいいやと思うものもいれば、

ショートケーキだけじゃなくて、たまにはチョコクリームになってみようかな、と思ってみたり、洋菓子店から和菓子店に移ってみたり、
新しい生クリームの活用を模索してみたり、

生クリームの人生にも色々あるのだろう。

どちらにしても、
ズレの修正ってとんでもない。

始まるための始まりにすぎないんだ。

人の集まる場所がいいわけではない

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人を癒してくれるのに、
人を寄せ付けない雰囲気がいい。

こういう自然の中が一番ほっとする。

地下の世界

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生涯をかけてその変化を見ていても、
1cm変わる姿を見られるかどうかの世界。

地上の世界が目まぐるしく変化している間、
地下では100年で1cmのような変化をしている。

その様子は、人の変化にも通じるものがあるかもしれない。

自分の目に映る世界がどんどん変化していても、内面の世界がそう簡単には変わらないように。

一つに繋がっている外側と内側の世界で、その変化の仕方が全く違うように。

外側の世界の変化に必要なものが適応力だとしたら、
内側の世界の変化に必要なものが忍耐力であるように。

きょうだいの年齢差を活かす遊び

年齢差のあるきょうだいと盛り上がる遊び。

一人が何かお題を書き、
他の人たちは、そこへ連想する絵を自由に書いていくのですが、

ルールが二つ。

・相手が想像しないであろうものを書くこと

・10秒で考えること(待ち時間が短い方が退屈せず盛り上がる&発想力を鍛えられる)



年齢差があったり(8才,11才,19才,23才,26才)
タイプが違ったりすると、
皆が本気?で遊ぶのが難しくなるのですが、

これなら、むしろ互いの違いを活かせます。

シンプルな分、違いが際立って面白いですしね。


その手があったか!
よく思いつくね
これならどうだ!

そんな会話で盛り上がる。

まだまだ当分飽きなさそうなので、実家へ帰ったときの定番の遊びになりそうです。
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紙と鉛筆で生まれる豊かさ


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小学生の弟がトランプゲームを見ながら必死で何かを書いているのを見つけました。

何を書いてるの?と聞くと、

昨夜、家族皆で遊んだトランプゲームがとても楽しかったらしく、

でも、そのトランプゲームは借りたものだったので、返した後も遊べるようにと、一枚一枚を書き写しているところだったのです。

その姿にとても心を打たれました。

自分も買おう、と思えないところに、貧しさや惨めさ、時には卑しさを感じることはあるかもしれません。

そのトランプを返しても、今ならスマホやパソコンで遊べるゲームはたくさんあります。

そのトランプにしても、安く買う方法もあるだろうし、
ましてや書き写さないで済む方法もあります。

少ないお金と労力で欲しいものを手に入れることを考えつかないのは、弟の考えの足りないところかもしれません。

それでもこの行為には、

どんな状況でも決してなくならない、豊かさの原点があると思います。

今の自分にできる精一杯の工夫をしようとする心、

自分で作る(今回は書き写す)過程にこそ楽しさがあるという視点、

紙と鉛筆(究極は葉や枝や土や石)さえあれば、
あとは自分次第でいくらでも生み出せるものがあるという気づき、

その心さえ忘れなければ、
いつだって豊かさは生み出せるんだと、弟をみていて改めて思いました。

実家へ帰るたびに、学ぶことが多いです。