群れから離れて生きていたい

楽に呼吸できる生き方を求めて

出る杭を打つ"うつ病"レッテル

もしも、「周りは当たり前のようにそれをしているけれど、自分は本当にそれでいいの?」と悩んで悩んで、もがいているときに、

「精神的に病んでいるから、そんなことを考えるんだよ」と言われたら、

どうやって、自分が正常な状態で悩んでいると判断すればいいと思いますか?

出る杭は打たれる。

もう使い古された言葉だけれど、もしも、出る杭に、「うつ病」というレッテルを貼ったとしたら。

それも、その環境で力を持っている、目上の方に言われたとしたら。

これは、「そんな道を選んだら後悔する、人生に失敗する」「ほら、こんなに失敗例があるだろう。人生を無駄にする気か」、他のどの言葉よりも重い言葉なんです。

自分が考えていることは、自分がおかしいからこんなふうに考えるの?
「これは違うんじゃないかな?」と思うのは、私がおかしいからそんな風に考えるの?
「少数派だけど、こういう生き方いいな」と思うのは、私が現実から逃げているだけなの?

「心が病んでいる」というのは、「あなたは正常な判断が出来ない状態だ」と言われているのと同じことです。

「考えて」「決断」するには、自分の軸が必要です。
でも、その軸がおかしいと言われてしまったら、どうやって考えを深めていけばいいのだろう。

私自身、この状態から抜けるのに、4年かかりました。

自分はおかしくない。自分の思考を、感覚を、信じても大丈夫。

ここまで自分を信じてあげられる状態にもってくるまで、本当に長かったです。

私は、ある時期、周りの大人にも、友人にも、「精神的に病んでいる。正常な判断ができていない」というレッテルを貼られてしまいました。

100人いたら99人は選ばなくても、私はそれを選びたいと思った時にね。

もちろん、家族や、親しい友人は、私を「正常な状態」として見ていてくれていたので、傍にいる人達は皆信じてくれました。

でも、ダメなんだぁ。

どんなに自分の傍にいる人が味方でいてくれていても、

「それは家族だからなんじゃないか。親しいからなんじゃないか」と疑ってしまう。

近い存在だから、私の正しい状態を把握できていないんじゃないか?
本当の私は、客観的に見ている他人の意見の方が正しいんじゃないか。

家族だから、私がおかしいのを受け入れたくないんじゃないか?
親しい友人だから、私が傷つかないようにかばってくれているんじゃないか?
私は、周りの人に甘やかされているだけなんじゃないか?

「自分の思考がおかしい」と言われることは、

何かの判断をするときに必要な、軸を無くすということです。

今ならもう、精神科に連れていかれそうになったり、カウンセラーの先生が現れたことも、笑い話として話せます。

でも、4年間抜けきって、本当に思いました。

こっちの方が、おかしくなるわーーーーーー!!!!って。

自分と異質なものを目の前にしたときに、
「あなたの思考がおかしい」というレッテルは、

ずるいよーーーーーーーー!!!!!って思います。

特に、「あなたのことを想っているからこそ、の言葉なんだよ」なんてもう、重たい、重たい鎖になるんですよ。

私をある程度知っている人から言われたなら、

「私を知っている人がこれほど心配してくれるなんて、本当に私はおかしいのかな?」

大して親しくもない人に言われたなら、

「親しくもない人がこれほど心配してくれるんだから、本当に私はおかしいのかな?」

「こんなに私を心配してくれているのに、どうして私はそれに違和感を感じてしまうのだろう。私はやっぱりおかしいのかな。」

もう、情という鎖をかけられているので、抜くに抜けられないんです。

それでも、私はなんとかしてそこから抜けたかったので、

どうやったら、自分を信じられなくても動けるか?を考えて、

「この状態から抜けるには、私の考えを現実化させるしかない」と思ったので、

動き続けました。

本当は自分がおかしいんじゃないか。ということと、毎日葛藤しながら。

目の前の仕事を一つ一つ、確実に積み上げて、

たくさんの、立場の違う方々と、一対一でお話をさせて頂き、

落ち込んで心が折れた時でも「人生をやり直したい」、なんて思わないように、

今ここにある幸せ、今ここにいるからこそ得られる学びに、もうなみなみならぬ情熱を注いで。

そうやって時間を積み重ねて、やっと外せたのが、「自分がおかしいんじゃないのか?」という鎖です。

鎖のおかげで今の私がいます。

でも、わざわざ、鎖なんてかけられる必要はないんです。

私のところにも、同じような鎖をかけられて、抜きたいけれど抜けられなくて苦しんでいる人が相談にきます。

でも、この鎖を解くには、

自分で実際に生きて、自分で自分に自信をつけさせてあげない限り、抜けられないんです。

それがとても悲しい。

異質なものを潰すなんて簡単にできます。

「精神的におかしくなってるよ」これでOK。ばっちりです。

特に、相手が自分の生き方を模索しているような時であれば、

たった一言で、相手を潰すことができるでしょう。

でも、そんなのって悲しすぎませんか。

異質なものを目の前にしたときこそ、楽しみたい。

なんでそんなふうに考えるようになったのかな?
どういう立場で、環境にいるから、そう考えるのかな?
その行動、言葉には、どんな背景があるのかな?
この人にとって、譲れない大切なものって何なのかな?

相手の話をとことん聞いてあげたい。

まずは、私自身がそういう人になれるよう、広い視野と心を持って、人と接していきたいなと思っています。

フェラーリに乗りたい!と叫ぶことから始めよう

自分の人生を大好きになれる人は、皆、自分の「欲」を大切にしてあげていると思います。

そもそも、欲を出すことって、とても難しい。

例えば、イメージしやすい例として、

本当はフェラーリに乗りたい「欲」を持っているのに、

「無理に決まっている」「限られた人しか乗れない」「そんなもの追い求めたら人生が破滅する」「フェラーリに乗るなんて、強欲で人から搾取する人間の乗り物だ」などなど、「欲」を持つと人生が大変なことになる。みたいな気持ちを持って、

「欲」を持つことをまるで悪いことのように押さえつけて、なかったことにして、

軽自動車を買って、「自分にはこれが似合うんだ」と言い聞かせることは、

一見、まっとうで、「これが人生よね」みたいな、切なく儚い人生ストーリー。

でも、これが後に、自分で選んで歩いてきたはずの人生を大好きになれない「種」になることを自覚しておかないと、大切な人や周りの人を傷つけてしまうと思います。

欲は押さえつけるんじゃなくて、消化させるべきものだと思うのです。

フェラーリに乗りたいなら、乗れる方法をとことん考えて、試して、その「欲」をきちんと消化させてあげないと、後で暴れてくるもの。

フェラーリに乗っている人に嫉妬したり、憎く思ったり、はたまた自分の人生に疑問をもっちゃったりね。

今の自分の状況で、フェラーリに乗るにはどうしたらいいか?

(もちろん、宝くじを当てる、借金して買う、など、自分は変わらずに簡単に手に入れる方法は除外して)

まず、今いる場所でできることをやってみる。

大企業に勤めている方なら、配属された部署によって出世の有無が決められてしまいがちだからと、定番の出世コースに乗ろうと頑張るのではなくて、

例えば、自分の部署を始めとして、様々な部署の「仕事」ではなく、「人」を繋げて、皆が気持ちよく仕事をしていける循環を作れるように働きかける工夫をしてみる。

自分の部署が目立たないところだったとしても、大勢の人を繋げて皆の笑顔を増やしているのなら、どんな会社でも、周りの人や上の人が、そのままにしておけるはずはないと思います。

そこで、定番の出世コースに乗れるようになったり、ぴょんと出世できてしまったり、人から人へと評判が伝わり、もっと条件の良い会社に転職できるかもしれない。

中小企業に勤めているなら、

例えば、出来る限り全ての部署の流れを見ることを意識して、自分の会社の全体像を掴み、現状と未来を予測することを常に考えて、社長や幹部の方々の目線になって、その方々に近付ける努力をしてみる。

ベンチャーなら、即 社長のそばにいき、何を考え、どうして今の会社を立ち上げ、どうやってここまで形にして、これからどうしていきたいのか、どんな人材を必要としているのか、などなど、起業家、経営者の思考と行動を教えてもらう。

アルバイトをしているなら、周りの友達と飲みにいって、朝まで語って3000円使っても、視点は変わりにくいので、
飲み代に使う3000円をもって、

まずは、

帝国ホテルとか、

都内の所謂、高級ホテルのラウンジでお茶をして、ステータス感の重圧に潰されてみる(笑)

フェラーリを、機械として好きなら、また別の方法も考えるけど、

ブランドやステータス、所謂、「成功」の象徴として、いいなと思う割合が多いのであれば、
それに似た場の空気に、自分を慣らしていくということもとても大切だと思います。

場違い感にさらされることで、広がる視野とか、見える世界もあるし、
単純に、人間観察をしているだけでも、普段見ない雰囲気の人を見る機会にもなるので、視点を変える勉強になると思っています。

こんな風に、自分の「欲」を表に出して、それを解消してあげようと動けば動くほど、

もの凄いエネルギーを使うことに気が付いて、

自分はこんなことしたくない。フェラーリなんて、ミニカーで十分だよ。

色々考えて、行動して、成長して、って、面白がっている人もいるけれど、

自分は全然楽しくない!!って思うかもしれません。

そして、軽自動車に乗って、

一人で、あるいは恋人と、友人と、家族と、

春はお花見、夏はサーフィン、秋は温泉、冬はスキーみたいな、生活の方が好きだし、心地よい。

あるいは、休みの日に、おにぎり作って、近所の公園に家族でピクニックしている時が、嬉しくて大切で、この時間を守ることを頑張りたい。

自分にとっての、

これが、もう本当に大好きで大好きで、生涯、こういう時間の中で生きていくことを大切にしたい!!

ってことに気が付けば、フェラーリに乗りたいという「欲」が消化されているので、

今度こそ、自分の人生を本当の本当に大好きになれると思うのです。

でも、もしも、この「欲」を解消せずに、今の生活を続けていると、

どこかで心がもやもやしているので、今の場所に足りない何かを感じ続けてしまう。

そして、5年後、自分と同じような立場だったと思っていた人が、笑顔でフェラーリに乗っていたりすると、

その時に溢れてくる感情を、どう処理していいのか分からなくなり、

その人を嫌いになるか、自分を嫌いになるか、人生って不公平だ!みたいな、黒い感情で心がいっぱいになってしまう。

そして、本当はこんな人生を生きたくなかった!!!

なんて叫ばれたら、そばにいる、恋人や友達、家族や子どもは、どんな気持ちになると思う。

自分自身も周りの人も、こんなに切ないことはないと思うの。

自分に集中して、自分の人生に満足していれば、

他のどんな人の人生を見ても、何も思わない。

それはそれ、あなたはあなたで、

「あ!そんな素敵な世界もあるんだ!?」
「それもいいね!」って、

良いものを素直に見せ合い、本当の意味で良い情報交換ができるから、

出会う人達と皆で、もっと楽しく生きていけるようになる。

一生懸命生きていれば、自分を笑顔にするために、一生懸命生きることがどんなに大変か知っているから、

自分と違う人をみても、嫌悪することなく、尊重することができる。

貪欲な人、強欲な人をみても、嫌悪することなく、

「あらあら、その欲をどう消化していくのか、見ものじゃない!」って、優しい目で見守ってあげることができる。

自分の「欲」を消化させるためにもがくことって、

一見、恥ずかしいこと、人生の道を踏み外すこと、「欲」に振り回されているかわいそうな人、のように思われがちだけど、

私は、とっても大切で、

大事なものを守るためにも、避けちゃいけないことだと思っています。

正しいことに群がるずるい人

不正を続ける人もずるいけれど、
不正を告発した人を支持する、不正をしている人はもっとずるい。

自分が損をすると分かっていて、
正しいと思うことを貫いて声をあげた人には、

「よく言った!」と、これまで言いたかったけれど言えなかったたくさんの人から称賛を受けたり、

同じような問題に葛藤している人に勇気を与え、

間違っていることを間違っていると主張することを支持する力が高まるだろう。

一見、不正を正そうする人はこんなにも多いのかと、未来を明るく感じられることに嬉しくなるかもしれない。

しかし、その反面には、

「自分は嫌な思いをしたくないし、自分の利益も失いたくないから、不正があっても目をつぶるしかない。自分の場合は仕方ない。
でも不正はおかしいと自分も常々思っているのであなたを支持します。」

そういう、自分は決して村からでることはないのに、
村から出た人を支持することで自分も村から出た気になるような、

嫌な思いはしたくないけど、
自分もそっち側(信念を貫く側)なんだ。という、良いとこ取りだけしたいみたいな、


そんな人たちもたくさんたくさん集まっているのが現実ということがとても悲しい。


自分は不正側にいるのに、
不正を告発する人を応援することで、自分が不正している罪悪感を拭い、
「でもやっぱり少しくらいの不正は仕方ないよね。」と自分の属する村に帰って利益をもらうであろう人たちの方が、

不正を続けている人よりもタチが悪いと思うのです。

人間だもの。そういうこともあるよね。
と納めたいけれど、
やっぱり悲しいことですね。

時間の主導権は誰にある?

自分の命の時間の主導権は誰にあるだろう?

時間が経つということは、
命の時間が短くなったということ。


本当は時間よりも優先させたいものなんてないのに、いつのまにか"時間"の価値は隅っこに追いやられてしまう。

お金のためとか、
輪を乱さないための付き合いとか、
老後のためとか、

もしも命があと半年ですよと言われたら、決してしないであろうことにどんどん時間を使っていってしまう。

自分の命が、
大切な人の命が、

あと半年だったら、
あと5年だったら、
あと10年だったら、
あと30年だったら、

そうやって残りの時間に思いを馳せながら、
今を考えていくことを決して忘れたくない。

日常生活の中でこういうことを考えていくのはとても大変なことだけど、
その苦労を上回るほどの価値があるのが、
"時間"なんだと思います。




仕事で評価されないのは悲しいこと?

仕事で評価されたいのに評価されない状態が続いてしまうと、人間だからどうしたって苦しくなったりするけれど、

そもそも"評価される"って何なんだろう。

例えば、高級レストランで何万円もする料理を作るシェフは、分かりやすいので大勢の人に評価されやすいけれど、

その料理に使われたみずみずしくて栄養も味もしっかりした野菜を作った農家の人や、その野菜を新鮮な状態で運んできた人やそういう流通システムを作った人、
調味料を作り出した人や、
鍋やフライパンやまな板のような調理機器を作っている人、
農家の人たちが美味しい野菜をより多く作れるように農業機械を作った人や、その機械をつくるために材料を輸入してきた人や、
農業機器や調理機器を作る機械を、作るための機械作る人、その機械を動かす燃料を運んだり生産する人や…

全てを書き出せないほどの、評価しきれない人たちは大勢いる。

雑誌やテレビにでてくるシェフが、シェフとして成り立つための裏側でどれだけの人が関わり労力をかけ、命を削って働いているのかを考えたら、

"評価される"ことが価値ある仕事というわけではないということがわかる。


評価されずに苦しい日々が続いていたとしても、
まずは自分が、自分の働きをみて評価できる!と思える働き方を積み重ねていこう。

そして同じように評価されていない誰かの素晴らしい仕事に目を向けてみよう。

そうしたらきっと、見える豊かさが変わって来る。



群れない人生は選択から始まる

自分で選ぶ。
この積み重ねが群れない人生を歩む道になる。

その道は危険だと思ったら、
たとえ大勢の人がその道を進んだとしても、
自分の判断を信じて道を変えられる自分であるか?

今、それをするのは本質からズレると思ったら"やらない"という選択のできる自分であるか?


他の誰が信じてくれなくても、
自分だけは、自分の判断を信じてあげられるか?

群れない人生とは、

自分をとことん信じてあげられるかどうか?ということなのかもしれない。