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群れから離れて生きていたい

楽に呼吸できる生き方を求めて

力を得るのと引き換えに失う力

私の思う“成長”について。

ここ1年ほど考えていたことを、
やっとすっきりいく理解ができました。

 

まだ落とし込んだばかりなので消化していないと思いますが、
少し言葉にしてみようと思います。

 

先日、ポルシェで500㎞ほど移動した後に、軽自動車に乗ることがありました。

 

助手席に乗りながら、道行く車を眺めていたら、ハッとしたんです。

 

パワーのあるものと接するとは、どういうことかということについて。

 

たとえば、

ポルシェが近づくと、
自然と道が開かれていきます。

 

もちろん例外はあるけれど、

 

ほとんどの人は、自分の車の後ろに真っ赤なポルシェが近づくだけで、
道を開けてくれる。

 

だから、パワーを出してスピードを上げているだけで、
どんどん道を進んでいくことができるし、

 

流れを読むとか、
どの道を通ると最短かとか何も考えなくても、


早くスムーズに目的地に到着できてしまったりする。

 

 

でも、軽自動車で移動するときは、そうはいきません。

 

まず誰も道を開けてはくれない。

 

無理して突っ込むか、
嫌がらせのように煽るかしない限り、

普通は流れに乗って走るしか選択肢はない。

 

だから自ら流れを読んで、
周りの車を見ながら、先読みして工夫して走っていかなければ、
流れを越えたスムーズさで進むことはできません。

 

パワーがないから、早く到着するためには、
どの道を通るか考える必要があるし、

 

色んなことを考えないと、

ポルシェと同じスムーズさ、時間で目的地に到着することはできません。

 

同じ距離を走るにも、
ポルシェのときと、軽自動車のときとでは、

意識していることも、
考えていることも、
行動の仕方も、何もかも違う。

 

ぼーっとしていても、スムーズに走っていけるものと、

 

考えなければ、スムーズに走っていけないもの。

 

どちらが成長できるかといったら、
パワーがなく、誰にも気に留めてもらえない軽自動車に乗っているときなんですよね。

 

でも、一方で、
パワーのある車を乗りこなす運転技術を磨くためには、

軽自動車ではできなくて、ポルシェのような車に乗る必要がある。

 

どちらがいいとか、悪いとかの話ではなくて、

 

“自分をいかに律することができるか"

 

それが成長の全てだと思ったのです。

 

パワーのあるものと接していたら、
自分は何もしていなくても道が開かれていくことが多くなります。

 

自分が手を抜いても、
それなりの結果や報酬を得られることが多くなります。

 

だからこそ、
パワーのある環境にいるときは、
自分を律して律して、
自分の能力にかさ上げされている部分をうんと感じて、

 

謙虚に、自分に厳しく、
行動していかなければ、

 

気づいたときには、

 

考えない自分になり、
考える力もなくなり、

 

パワーのあるものの力を借りた分、自分の力は失われていくんだと思います。

 

このパワーは、
正社員という立場かもしれないし、
大手企業や急成長の会社との仕事かもしれないし、
報酬の高さかもしれないし、
過去の実績かもしれないし、
生まれた環境かもしれないし、
パートナーの存在かもしれないし、
仲間がいると感じられる環境かもしれないし、
身に着けているブランド品かもしれないし、
誰もに驚いてもらえる“夢”を掲げることかもしれないし、
なんらかの肩書きを持つことかもしれないし、

 

色んなパワーがあります。

 

自分は一体、今、どんな力を使っているのか、使ってきたのか、振り返り、
自分を律して厳しく自分を評価することを、忘れちゃいけないなと思いました。

 

それと同時に、今パワーがないからといって、
それは何のみじめさにも、不利にもならないということはいつも凄く思います。

 

不利な環境にいた方が、
工夫できる。

 

嫌でも、考え無しの自分でも、
現状を変えるには、“考える”以外の方法がないので、

 

自分のパフォーマンスを上げる絶好の機会だと思います。

 

その状況以上に、自分の基礎力を引き上げられる機会はないとさえ思います。

 

だから、不利な環境にいるからと、
安易に、パワーのあるものを手にしようとしない方がいい。

 

それは、パワーのあるものの手のひらに乗せられてしまうことになり、
表面的には、良い報酬、良い暮らし、良い待遇を得られるように感じ、
人に自慢できる人生を歩むことになったとしても、

 

その環境から抜けたら、
その状況が変わったら、
その人がいなくなったら、
今みている幻想が解けたら、

 

何も残っていない恐怖と対面することになる。

 

幻想が解けたあとにみえる自分の環境がどんなに嫌でも、どんなに悲惨でも、

 

そこにしがみつく以外に、
自分の歩める道はないと思ってしまうほど、
弱い自分になってしまいます。

 

(本当はそこからまた力をつけられるんだけど、考えなかった時間があまりにも長くなると、現状を受け入れることしか考えられなくなることが多いので)

 

だから、本当の本当は、

何も手にしていないときよりも、

 

何かを手にしているときの方が、
うんと厳しい修行を自分に課さなければ、成長はできなくなる。

 

何かを手にしたいなら、

 

そのもののパワーに甘んじない自分作り、
器作りが必要なんだと、

 

安易に器以上のものを持つことは、
不幸の始まりでしかないんだと、

 

成長するとは、
器以上のものを手にすることではなく、
器を大きくすることなんだと、

 

器を大きくする一つの手段が、
器以上のものを手にすることなんだと、

 

目的と手段を間違えてはいけないんだと、

 

そんなこと思うドライブでした。

日記を書くということ


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過去の日記を読み返すと、
今の自分を"言い訳"で守ることができなくなるから好き。

たくさんの過去の自分が、現状に通じる選択をしてきたと自覚できるので、

自分の選択の積み重ねが今であると、突きつけてもらえる。

日記を書くことは、
未来の自分が逃げないように、先手を打つことのような気がします。

と同時に、

自分が得てきた幸せを思い出させてくれる。

いっぱい笑って、
いっぱい泣いて、

生きた時間の分を生きていたんだと教えてくれる。

日記は、過去から未来へ送る自分へのプレゼント。

過去の自分が今の自分を律し、笑顔にしてくれる。

そこが好き。

意識しなければ見えないもの


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夕日は毎日見られるものなのに、
意識しなければ毎日見過ごしてしまいます。
 
一日の中の全ての瞬間が、
本当は一度きりの瞬間の連続なのに、
 
たくさんのことを見過ごしてしまいます。
 
 
目の前にいる人のことだって、
意識しなければ全てを見過ごしてしまうことがあります。
 
自分の傍にいる人のことは、もっと見過ごしてしまうことがあります。
 
 
朝、いってらっしゃい!と声をかけた家族や恋人の顔をちゃんと見ていただろうか。
 
友達と、またね!と別れるとき、ちゃんと顔を合わせられていただろうか。
 
当たり前に傍にいる人が一番大切なはずなのに、
 
当たり前に傍にいる人が一番見えなくなる。
 
 
素敵な瞬間は、いつだってそこにあるのに、
 意識しなければ毎日見過ごしてしまいます。
 
今日が最後かもしれない。
 
そう思わない限り、
大切なものを大切にできないくらい人は弱いものだと思います。
 
大切なものを当たり前に大切にできるように、
 
今日が最後かもしれない。
大事にしたいです。

色んな道がある

その道を走っているからこそ見える景色を味わおう。
そう思うだけで、一瞬一瞬が見逃したくない大切な景色の瞬間になる。
 
その思いが、宝物の記憶を増やしてくれる。
 

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強いということ

仕事や人生が安定しているときは、

安心してしまって、
いつの間にか守りに入ってしまいます。

その心は、気をつけなければ、
あっという間に黒く重くなります。

何か事が起きたとき、
何か外的要因による変化が起きたとき、

自分が何もしていないから、事が起きたことを、

自分が何もしていないから、対処できなかったことを、

自分は何もしていないのに、
なんでこんな思いをしなければならないんだ!
なんでこんな運命になってしまうんだ!

と、誰かや何かのせいにする心に変わってしまいます。

安心できることは幸せだけれど、
気をつけなければ、
油断し、気を抜き、選択が甘くなります。

いつの間にか、
考えることをしなくなり、

これがいい!という選択ではなく、
これでいい。という選択をしていくようになります。

仕事があることを当たり前に感じ、

「これくらいでいいだろう」という甘えや傲慢のある仕事をし、

関わる人に、「これくらいでいいだろう」という心で生まれたものを届けることになり…

悪循環を生む芽を育てることになります。

安定しているときほど、
色んなことが試されるんだと思います。

安定からくる誘惑に負けない強さを持つことが、強くなるということかなと、

そんなことを思います。

悪循環を食い止める"選択"の力

何か苦労を背負ったとき、

社会的立場の弱い方へ追いやられてしまったとき、

 
その原因の中には誰かや何かのせいもあるのかもしれない。

 
社会がもっとよくなれば、

政治が、経済が、会社が、今ある社会の仕組みが、

変われば、自分たちはこんな状況で生きていかずに済んだということは多々あるかもしれない。

 
だから、そういう大きな力を変えていこうと活動をしたり、努力していくことはとても大切だと思います。

 

でも、そういう大きな力を変えて、その変化が現実に現れるまでには、

数年、数十年という時間がかかることがほとんどです。

 

今、苦しい立場に追いやられている人が、良い立場にいくということは、

今、良い立場にいる人が、苦しい立場に追いやられてしまうということでもあるので、

 
何かが変わっても、結局、誰かが誰かを憎むことも変わらない。

 
せっかく何かを変えることができても、

憎む思いが、また何かを歪めてしまう。

 

もしも、そんな悪循環を少しでも食い止める方法があるとしたら、

 

それは、自分の人生は自分が選択した結果なんだ、ということを、

一人一人が自覚していくことなんじゃないかなと思うのです。

 

たとえば、

 

今、自分のいる環境が辛いならば、


そもそもどうしてその環境にいることになったんだろう?と思い返してみる。

 
それしか選択肢がなかったから仕方ない?

 
でも、これまでその環境で耐え忍ぶために頑張って、使ってきたエネルギーを、

それ以外の選択肢を増やすために使うこともできたのに、

しなかった。

 
という選択の結果があるということを忘れてはいけないと思うのです。

 


今、お金に困っているとしたら、


そもそもどうしてそのお金が必要だったのだろう?と思い返してみる。

 
学ぶために、仕事のために、家族のために、必要だった。なら、

そのためにお金を借りたという選択の結果がある。

借りると引き換えに、得ているものがある。

 
何かのためにお金が必要で、借りるしかなかったとしても、
 
その何かのために必要な金額を少なくする方法を探すという選択肢もあるし、

その何かではない選択をする、という選択肢もある。

 
でも、そういう選択肢を探すには時間がかかる。

 
その時間をかけずに、自分に必要なものを求めると選択をした結果、

 
あるいは、時間をかけられない状況に、自分を追い込んでしまうような選択をしてきた結果、

 
必要な金額があり、借りる必要があった、という選択の結果があるということを忘れてはいけないと思うのです。

 

 

自分は毎日、何を選択してきたんだろう?と振り返れば

 

政治や経済や会社や社会や、誰かのせいにする前に、

 
今の自分が、将来の自分のために、

自分で自分を守る選択をする機会はあったということ、

 
今の自分の現状に至るまでに、

小さなことから大きなことまで、日々、選択してきた事実があるということに、

気づくことができます。

 

弱い立場の自分が、大きなものの力に流されずに生きることは難しくても、

 

一つ一つのことを、一回、自分で考えてみる。

選択するかどうか考えてみる。

どうして、それを選択しようと思っているのか考えてみる。


自分の人生は自分で選択している、ということを思い出してみる。

 

それなら、

社会が変わらなくても、

何十年も待たなくても、

 

今から変えられるものを、

自分の力だけで変えられるものを、

増やしていける。

 


そうしてまずは自分が、悪循環を生みださない人になろうとしてみる。

そのために、成長しよう、賢くなろうとしてみる。

それが今の自分にできる、

自分や周りにいる人を救う手だてになり、
大きなものの力に流されずに生きる力になるのではないかなと思います。


瞬間の輝き

その時期、
その日、
その瞬間だから出会える景色がある。

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未来を思う時間も大切、
過去に想いを馳せる時間も宝物。

だけど、今この瞬間にしか見られないものが、本当は毎日にあるということを忘れない自分でありたい。

目の前にある景色を見過ごさないように。

そうしたらまた一つ、宝物と出会えるね。

不況の中にある豊かさ

不況という言葉を聞くといつも思うことがあります。

例えば、豊かさって何だろうと考えたとき、

私は、

たった一個のお茶碗を、30年でも50年でも使い続けて、毎日ご飯を食べることだと思います。

そのお茶碗を持つと、30年分の毎日の歴史の重みを感じられるなんて、豊かですよね。

お母さんやお父さんやきょうだいと一緒にご飯を食べた時間、

友達や好きな人と一緒に食べた時間、

そしていずれは、旦那さんや奥さんや、自分の子どもや孫とご飯を食べた時間も刻まれていく。

たった一個のお茶碗が見てきた景色の厚みが、手を通して自分に伝わってくる。

そんな時間の積み重ねを物と過ごすことができたら、
それはとても豊かだと思います。

でも、景気がよくなって豊かだと言われるようになるためには、

その30年や50年の間に、
お茶碗を何百個でも、何千個でも買い替えた方が豊かになる仕組みがあります。

もちろん、そうあった方が育つもの、成長できるもの、もっと豊かに発展していけるものがたくさんあるのは分かります。

私だって新しいものを欲しくなるし、お金をたくさん得て欲しいなぁと思うものもたくさんあります。

それを残すためにも、もっと良くして未来に伝えていくためにも、景気をよくしていかなければならないのも、よく分かります。

若い世代の一人として、私も頑張っていこうと思います。

でも、不況になるといけないということはないと思うんです。

それこそ、人が心を温かくして生きていくために必要な豊かさの本質は、不況の中にあるような気がします。

豊かさについて言葉にするのはとても難しいけれど、

少なくとも、

こうでなければ豊かになれない。
ということはない、ということは胸を張って言えます。

その状況、その状況に、必ず豊かさの側面はあるんだと思います。

それを見逃さないことが、一生懸命生きるってことじゃないかなと、私は思います。

変わらないでほしいという愛情表現

人はいつも、誰かに愛情を注いでいる。

でも、それがどんな愛情なのか、時々振り返ってみることは大切だと思う。
 
愛情には色々な形があります。
 
相手の幸せを願う愛情もあれば、
「変わらないでほしい」という愛情表現もある。
 
例えば、
 
自分の知っているあなたでいてほしい。
自分の知らない世界に行かないでほしい。
自分の知っている成長の仕方をしてほしい。
 
自分が許容できる想定外ならいいけれど、それを超える想定外なことをしないでほしい。

自分を超えない範囲で成長してほしい。
 
もっと歪んでしまえば、
 
自分よりも幸せ(そう)な人生を生きて、どこか遠くへ行ってしまうことが怖くて、
 
ずっともがき苦しみ悩んでいてほしい。
ずっと孤独でいてほしい。
ずっと弱い者であってほしい。
ずっと苦労していてほしい。
 
 
自分の抱えている問題を、
相手に“愛情”という形でぶつけてしまうこともある。
 
近しく感じている人であればあるほど、その想いは強くなる。

変化と共にある人生を歩みやすい人は、
 “変わらないでほしい”という想いを受け続ける日々に、心を痛めていることも多いだろう。
 

もしかしたら、それに辛くなって、変わらない道を選択したくなるときもあるかもしれない。
 
何をするにも、
どこにいても、
いつだって、

「想定外なことをしてごめんね。」
という罪悪感を抱えながら、

村八分的な空気を感じるやるせなさ。
 
だからもう、傷つかなくていいようにと、エネルギーを出さないように自分で自分に圧力をかける生き苦しさ。
 
そしてそれら全てを、自分の思い込みだと思おうと、もがく惨めさ。
 
こういう葛藤を抱えながら生きていく道を選択しているかもしれない。 

でも、そういう歪んだ圧力は長くはもたない。

いずれ限界がくる。

そしていつのまにか、

「こんなに変わらないように頑張っていたのに!」と、
人生を誰かのせいにしてしまう自分になってしまうかもしれない。
 
それはやっぱり嫌だよね。

大きな目でみれば、自分が自分であることが一番、自分も周りも幸せにすることを思いだそう。

わかってもらえず、悲しませてしまうことはあるかもしれない。
 
でもそこで、変わらないことを頑張って自分を歪めるのではなく、

精一杯伝えることを頑張ってみよう。

自分にとって変わることがどういう意味なのか、分からないなりにも伝え続けよう。

そして、相手が傷つくのは自分のせいではなく、相手自身の問題であることに気づいてあげよう。

どうして私が変わると悲しくなるの?辛く感じてしまうの?

相手の心に抱える傷に耳を傾けてあげよう。

今は通じ合えなくても、
今後も通じ合えなかったとしても、

伝え合うことを諦めない。
そこを頑張ってみよう。

紙一重で変わる現実

私は、いつでも相談に乗るよ、何でも話して、という言葉が好きではありません。
 
紙一重な違いで、どちらの評価もできてしまえる状態はたくさんあります。
 
どんなに苦しくても、簡単に言葉にできないことはたくさんあります。
 
伝える人を間違えれば、言葉の選び方を間違えれば、
取り返しのつかない事態を招いてしまうもの、
 
話すときの自分の精神状態で、いくらでも見方が変わってしまうもの。
 
例えば、
 
親が示しているものは、
愛情なのか、虐待なのか
 
悪循環を生みだしてしまうのは、
相手自信の問題なのか、自分のせいなのか、
 
自分の決断は、
逃げなのか挑戦なのか、
 
相手への気持ちは、
愛情なのか、同情なのか、
 
周りに同じような人がいないのは、
開拓者なのか、異常者なのか、
 
通じ合えない孤独は、
被害妄想なのか、事実なのか、
 
身体への異変は、
自然現象なのか、異常なのか。
 
 
自分にとって都合のいい答えを出して決めつけてしまえば簡単だけど、
そうすると、今度は憎しみや怒りなど、人を恨む心が育ってしまうこともある。
 
簡単には判断できないことを、安易に言葉にしてしまえば、
事実が全く逆に形作られてしまうこともある。
 
自分が抱えていることを理解できない状態ほど苦しいものはない。
 
今は、簡単に言葉にして周りに伝えられる時代だからこそ、
事実とは違う言葉で表現されてしまっているものはたくさんあると思います。
 
そして、簡単に言葉を扱い現実を表現できる文化は、思考を成熟させることが難しくなってしまうので、
周りに理解されずに苦しむ人も増えていくんだと思います。
 
 
自分に起きていることを、
自分に見えているものを、
適格な言葉で表現できる自分へと成長していく。
 
難しい課題ですね。
 

時代が変わる前の群れ社会

今は人と出会うのも簡単、
世界中の情報を手に入れるのも簡単、
欲しいものを安く手に入れることも簡単にできる。

ありとあらゆることが、簡単に実現できるようになったので、

まるで自由が広がり世界が広がり、可能性が広がったかのように思える。

でも、私は息苦しい。


あちこちで、それぞれの"人生とはこういうものだ"に同調する仲間と群れを作って、

こんなに仲間がいるんだから、この価値観が正しい!という押し付けパワーが増しているように感じる。


誰もが、何か一つの正解を求めていて、
見つけたものを正しいものだと信じようとする力が強い。

そうじゃない世界だってあるのに、
フォローしてないものは、ないことになっているような感じがする。

でも、それはきっと恐いからだと思う。

自分にとって都合の悪い価値観で、自分の望む未来を手にしている人もいるという事実と向き合うのが恐い。

だって、それを知っちゃったら、これまで憎しみでパワーを出してきたのにどうしたらいいの?

と、途方に暮れてしまう。

自分が努力してきたことや費やした時間、お金、労力を何一つせずに、自分の望むものを手にしている人がいたことに気づくのが恐い。

だって、そんなのあんまりじゃない。自分のこれまでは一体何だったの?

と、過去を絶望しかねない。

自分の人生に起こる全てが、
本当は誰のせいでも、何のせいでもないということを自覚していくのが恐い。

だって、全部自分のせいだなんて、それじゃ誰も同情して助けてくれないじゃない。

甘えて楽する選択肢を失ってしまうんだもの。

そうやって、色んなことを気づいていくことが恐いから、

いつのまにか無意識に、自分の知っている世界が全てだと思い込める現実で世界を作り上げてしまう。


私はそんな息苦しい生き方したくない。

自分に起こることは全て自分のせいだと喜んで生きていこう。

恐くたって、群れずに生きていきたいと思う。

地味なところにこそ宝がある


人と人との結び付きを強くしてくれるものは、

ここぞというときに相手を信じようと思い合えるのは、

もうダメだ、というときでも手を離さずに乗り越えられるのは、

特別な思い出の方ではなく、

なんてことない方、

もしかしたらその時は平凡すぎて、つまらないなー
何か面白いことないかなー
と思っていたかもしれない、
日常の中で笑い合った思い出の方だと思う。

華やかな思い出や、
日常から離れたところで積み重ねた思い出も大切だし好きだけど、

そういう分かりやすくキラキラしたものは、

新しい出会いでも同じように素敵な時間を作りだせていると思えてしまう、脆いもの。

それこそ新鮮でワクワクがある分、新しい出会いとの方が色濃い時間を共有していると錯覚してしまう。

そういうものをどれだけ集めたところで、
強い絆だと思っていられるのは、キラキラした世界にいるときだけだってことを忘れちゃいけないと思う。


人生のパートナーでも仕事のパートナーでも、家族でも友達でも、

特別なことで笑顔を作ろうとするんじゃなくて、

地味で退屈でパッとしなくて、面倒なこともいっぱいある日常の方で、うんと笑える時間を積み重ねていこうする気持ちが、
基盤を作ってくれるんだと思う。

基盤というのは地味なものなのだ。

でも、だからこそ、

磨いていくから気づく輝きがあるのだろう。

上昇気流に乗るだけが成功じゃない

成長して上がっていくには二通りの方法があるんだと思います。

自分で階段を作って昇っていく方法と

上昇気流を掴まえて昇っていく方法。

短期的に見れば、上昇気流を掴まえた方が、早く高く昇れて、とても綺麗な景色をみることができるかもしれない。

そこで次の上昇気流を掴まえることが出来れば、もっと高い所から素敵な景色が見られるのかもしれない。

でも、上昇気流からちょっとでも外れたら、もう落ちるしか術がない。

一気に高い所に昇れても、足場がないから不安定で、すぐに次の上昇気流を掴まえないと落ちてしまうそうで、いつも恐怖と戦っていないといけない。

だから、自分の望まない所に行く気流に乗ってしまったら、
それに気づいちゃったら、
後は落ちるを選ぶか、耐え忍んで昇り続けるしかなくなるのかもしれない。

自分で階段を作って昇っていく方法は、なかなか景色が変わらなくて、これをいつまで続ければ素敵な景色が見えるのだろうって悶々とするかもしれない。

上昇気流に乗った人が高い所で綺麗な景色を見ているのを見上げて、変わらない自分の高さに絶望を感じちゃうこともあるかもしれない。

でも、自分で足場を作ってきているから、もがいたって休んだって落ちない。
「あっちの方が景色綺麗そうだから、やっぱりあっちに向かって階段を作ろう♪」って自分で方向転換することもできる。

お気に入りの景色を見つけたら、階段じゃなくて広場を作って、この景色をうんと堪能しよう♪って、そこで楽しむことを選ぶこともできる。

成長の仕方や成功の在り方は人それぞれだかど、

お気に入りの景色をみつけたら、見ていたいだけみていられるような時間の中で生きていきたいのでやっぱりコツコツが心地好い。

耐え忍ぶ人生の副作用

頑張ることの目的は、メディアに出せるような結果をだすことではなく、自分が自分の人生に満足できるかどうかのためにするものだと思う。

少なくとも私はそのためにがんばっている。
自分で自分を笑顔にしてあげたくて。

それを間違えるから悲しいことが多くなるんじゃないのかな。

報われない頑張り方をしている人は、耐え忍ぶことが頑張ることだと思っているように感じるの。

でも、耐え忍んで得るものは、悪循環しかないように思うんだよね。

こんなこと、耐え忍んで頑張ってきた人にいうと、自分を守るために、とても怖い人になってしまうので、

そういう人と接すると、いつも、

うぅぅぅぅ、それが耐え忍ぶことの副作用だよーって悲しくなります。

「私が頑張っているのは、私が頑張りたいからだよ」という人は、自分は自分、人は人ってちゃんと分かっているから、人に暗い感情をぶつけることがない。

でも、「自分はこんなに頑張っている!!」という気持ちで生きている人は、

「この辛さを分かってくれ、なんで分かってくれないんだ!」という怒りや

「あなたも同じくらい頑張りなよ!頑張らないとダメなんだよ!」と、自分と同じように頑張ってもらいたくなってしまう。

それが、周りにいる人達を傷つけているということに気づかなければ、不幸の連鎖が始まってしまうと思うのです。

耐え忍んでいる人は、耐え忍ばなければ幸せになれないと思っている。

だから、一見、耐え忍んでいるように見えない人が幸せそうにしていると、

自分が耐え忍んでいることが、無駄なことのように思えてしまって、「自分のこれまでは、いったいなんだったんだ?」ってことから考えないといけないので、

それを見ないために、必死になって自分で自分を守ってしまう。

だから、人に対して、
「今はいいかもしれないけれど、そんなんじゃこの先はダメになる」と、相手を批判するような視点でしか見られなくなってしまう。

これじゃ、どんどん悪循環が広がっていっちゃうよ。

確かに、耐え忍んで、頑張る時も必要だよね。
自分が成長するために、ここは踏ん張り時だってこともある。

でも、それだって自分ががんばりたいからがんばっているんだよ。

自分が耐え忍んで生きているのかどうかは、

外からみて楽しそうに生きている人の生き方を見て、受け入れられるかどうか、

「あぁそういう生き方もあるんだ♪」と思えるかどうかで分かると思う。

自分とは違う人と会った時に、自分を守る必要がない時は、
良い頑張り方をしている時だと思う。
それが自分のバロメーター。

嫉妬、批判、「そうはいっても、あいつもいつか落ちるさ!」などとひねくれた物の見方をしてしまう時、

「そんな生き方がずっと続くはずがない」と思ってしまう時、

楽しそうに生きている人に会った後に、どっと疲れる時、
自分が急激に落ち込んでしまう時、

それは良くない頑張り方をしている時のサイン。

幸せそうな人をみて自分も幸せを感じられるような、そんな頑張り方を模索したい。

そこにいるからこそ得られる素敵なもの

今いる場所のことを多角的に見られるようになればなるほど、

そこにいるからこそ得られる、素敵なものに、

目を向けることができるようになります。


どんなに、今いる場所で辛いことがあっても、

そこにいるからこそ見える、感じられる、素敵なものが、いつだってそこにあるんだと思います。


例えば、裕福な家庭に生まれた人は、時に人から羨ましがられ、憎まれてしまうことがあります。

他の人が10年、20年かけて手に入れられるものを、たった一瞬で手に入れてしまうこともあります。

裕福だからこそ得られてきた、経験やスキル、人脈を使って、「やりたい」ということをすんなり叶えているように見えることもあります。

でも、その一方で、どんなに自分が頑張っても、「それは、あなたの親がいたからだよね」と、その家系から抜けることができずに、悔しい思いをしている人もいます。

他の人が、1の素敵なことで、その日、一日中幸せでいられて、「今日もとっても幸せだなー」って過ごせている一方で、

恵まれてきたが故に、その人が一日中幸せでいるためには、100も1000もの素敵なことがなければ、「今日もとっても幸せだなー」って思えず、

「嬉しい」という感情を一つ起こすだけでも、膨大なエネルギーを必要として、苦しんでいることもあります。

貧しい家庭に生まれた人は、得られない物の多さに、絶望を感じてしまうことがあります。

他の人が当たり前のように与えられているものを、得られずに、寂しい思いをしていることもあります。

貧しいが故に、皆と同じ環境にいられず、いじめられてしまう人、一人ぼっちになってしまう人もいます。

でも、だからこそ、大人になった時に、「あの頃、親がどんな思いで自分を育ててくれていたのか」を感じられて、親を大好きになれる人もいます。

自分で稼いで欲しいものを手に入れられることが嬉しくて、働くことが大好きになれる人もいます。

そしてもしも、その子が、「周りと違うから、周りと同じように人と仲良くすることができない。じゃぁ、どうすれば、何もない状態でみんなと仲良くなれるだろうか?」と考えることに、気が付いて、

トライ&エラーを続けていくことができれば、

その子は、時間と共に、周りの何十倍もの、高いコミュニケーション能力を身に付けることができます。

大企業に勤めている人は、その企業の名前の信用を使うことで、商品の説明やサービス内容を話さずとも、取引きしてもらえることがあります。

プライベートでも、その会社の名前を出すだけで信用してもらえて、たくさんの場所に出入させてもらえ、色んな経験や人脈を繋いで、自分が本当にやりたいことのチャンスを引き寄せている人もいます。

他の会社に勤める同じ年収の人が、ローンの審査で落ちてしまっても、自分の勤める会社の信用によって、ローンの審査が通り、チャンスを掴むことができることもあります。

でも、一方で、大企業であるが故に、仕事が細分化されすぎて、自分が一体、何のために働いているのか見えなくなって、苦しんでいる人もいます。

会社の利益と、日本人にとっての利益と、世界からみた日本の利益のずれに、会社のしていること、自分のしている仕事に対して、どう受け止めていいのか分からず、もがいている人もいます。

悪循環を食い止めようにも、部署が細分化されすぎて、一体、どこからこの悪循環が始まっているのかも分からず、良いものを良いものとして守るためには、どうしたらいいんだろう?って、戦っている人もいます。

ベンチャー企業に勤めている人は、どんなにその会社の商品、サービスを深く理解していて、何日もかけてプレゼンを準備していても、名前の知らない会社ということで、名刺も受け取ってもらえないことがあります。

バックグラウンドがないというだけで、まるで悪いことをしたかのように、冷たい目を向けられてしまうこともあります。

仕事が細分化されていないが故に、カバーする範囲が広すぎて、自分が本当にやりたかったことに集中できず、働きつづけて苦しんでいる人もいます。

でも、その一方で、「どうしたら、何もない状態で、人に話をきいてもらえるか?」と、その会社でしか、その人にしかできない、スキルが磨かれていくことがあります。

仕事が細分化されていないからこそ、自分の仕事の全体像をいつでも理解することができて、経営の核の部分を普段の仕事から学び、経営者の目線で物事をみることもできるようになる人もいます。

他の人が1年で10のことを学ぶ間に、その人は100も1000もの事を学び、成長し、自分のやりたいことをやるチャンスを引き寄せていく人もいます。

年収数千万円を得ていても、家族と一緒にご飯を食べる時間も取れなくて、寂しい思い、切ない思いをしている人もいれば、

年収200万円ちょっとで、何の贅沢もできないけれど、毎日、家族そろって朝ご飯を食べられて、ありがたい、という人もいます。

こういうことに限らず、
病気、事故、大切な人の死、裏切り、力を持っている人からの圧力・・・生きていれば、誰だって、その人その人にとっての、重い課題を背負っています。

笑顔だから、華やかな世界にいるように見えるから、何もないなんてことはないんですよね。

どうして、あんなに素敵な笑顔でいられるのかな?
という人は、

運がよかったから、その笑顔でいられるのではなくて、

笑顔でいるために、本当に一生懸命なんですよね。

辛いことからも、「うー、うー、この辛さから一体何を学べというんだ!?これか!?それともこれ!?」って、一生懸命生きていて、

「あーーーー!このことを学ぶために、これがあったんだ!」って抜けられて、自分の笑顔の栄養にしている。

今いる場所だから得られることに目を向けて、

いつも、「ありがとう」という気持ちでいる。

欲しいなら、欲しいって素直にいって、どうすれば欲しいものが得られるかなっていっぱい考えて、行動して。

変だよ!と思うなら、まず自分に何ができるかを考えて、行動して。

そうやって明るく生きていこうと覚悟を持っている人に、私もなりたい。

どんな場所にいても、

そこにいるからこそ、

そこだからこそ、得られる素敵なものがあるということを、

見落とさないように、大事にしたいですね。

それでも、落ち込んでしまって、元気を失っていると、もうギブアップだよ・・・って、

自分の人生を嘆いて、何かのせいにして逃げてしまいたくなることはそりゃあります。

でも、どんな場所にいることになっても、

そこで何を見るか、その後、どう動くかは自分で決められるということは、

忘れないようにしっかり自分に刻みこんでおきたいですね。